「アスチルベはもう枯れない」:ネフロレピス

2017.06.15
「アスチルベはもう枯れない」:ネフロレピス

「第一話:グッバイスイートピー」はこちらからご覧ください。

「第二話:ハローアスター」はこちらからご覧ください。

「第三話:ロンリークローバー」はこちらからご覧ください。

土曜日の山手線は、重い身体を揺らしながら、息も絶え絶えに各駅を巡回する。

駅に停車する度に、両開きの口から大量の人間を吐き出し、また大量の人間を飲み込んでゆく。

一体どこに収納されていたのか、どこからともなく人が湧き出る様は圧巻であり、芸術的ともいえる。

飲み込んでは吐き出すを繰り返し、同じ風景をぐるぐると回るその様は、人の一生を暗喩しているかのような、絶望の片鱗を感じさせる。

三山はドアにもたれかかって、殺風景な景色をぼんやりと眺める。

北海道の片田舎で育った三山は、上京してもうすぐ4年の月日が経つが、未だにこの風景には馴染めず、どこか自分だけが浮いているような感覚を拭えずにいる。

東京の中でも緑の多い地域は、往々にして『東京っぽくない』という褒め言葉とも単なる感想とも取れる言葉によって祭り上げられ、不動産業界においても人気のエリアとなっているが、東京の人工的な緑色が三山を癒したことは一度もなかった。

緑色は目に良いのではなかったろうか。

不自然なほどに攻撃的な緑色が、三山にとっては実に見るに堪えないものであった。

ふと視線を車内に戻すと、車内は相変わらずの盛況ぶりである。

これだけの人間を抱えながら均衡を保ち、日々何事もなく回る世界に対しては、不自然さを感じざるを得ない。

均衡するほどに不均衡。

この明白で不可抗力的な矛盾の創造は、地球上の七十億人が加害者であり、等しく七十億人が被害者であると思われる。

先ほどの彼女は今頃、トラブル対応に追われているだろうか。

ふと、彼女の別れ際のぎこちない笑顔が眼前に浮かぶ。

あの苦痛に満ちた表情が彼女の内面的な美しさを造形し、三山の心に克明に刻み付けられている。

渋谷を経由して西早稲田に到着する頃には、日差しは一層強くなり、春の訪れを感じさせ、同時にもう戻らない一度きりだった冬を憶い、また少し後悔を積み上げる。

冬が姿を消し、夏が春の背中を見る頃、三山は多少の疲労を携え、本日二件目の物件へと向かう。

早稲田というと、早稲田大学の色が濃すぎるために、その他の情報の一切が遮断されているような、どこか不思議な街であるが、調べていく中で、ここは歴史のある街であり、神社や寺の立ち並ぶ、由緒ある街だということを知った。

改札を抜けて早稲田大学方面に南下し、八幡坂を登った先に、恐ろしく古めかしいクリーム色のマンションが姿を現した。

先ほどの品川のタワーマンションとは似ても似つかぬ、訪れた者をどこか遠くへ連れていってしまうような、不穏なオーラを放っている。

恐る恐る階段の一段目に足をかけると、想像していた音色と一切相違ない音が鼓膜をつき、自然と背筋が伸びる。

錆びて塗装の剥げた手すりに摑まり、些か不恰好な姿勢で階段を登り切ると、古びた紺色の扉が4枚並んでいた。

時間の不可逆性を体現するかのような、堂々たる廃れっぷりである。

前面の道路を自動車が通るたび、この一帯を局所的に揺らしてゆく。

突如、奥から2番目の扉が開き、年配の女性が布製のカバンを手に出てきた。

扉が開くのは突如のことであって然るべきであるから、こういった表現をするのは、この建物を廃墟と見なした三山の先入観によるものであって、言うまでもなくこの御婦人には一切の過失がない。

ふと視線が交わり、反射的に軽く会釈をするものの、その会釈に何の意味があるか自分でも分からず、何故だが情けない気持ちになる。

やや曲線を描いた腰を揺らしながら、階段の方向へ、つまりは三山が立ち塞がる方向へゆっくりと歩みを進める。

「あの、すみません。鍵、閉めないのですか?」

御婦人の無用心さを紳士的に指摘する。

「盗られるものもないし、盗られて困るものもないもんね」

「あ、いえ、そういう問題では・・」

「そういう問題さ」

不思議なことに、彼女がそう言うのならそういうものなのかと、それ以上反駁する必要もないように思えた。

妙に達観したような、存在そのものに説得力のあるような、浮世離れした雰囲気を纏っている。

「あんたみたいな若い人がこのマンションに来るのは珍しいねぇ」

「若い方は住んでいないのですか?」

「あんたはここに住みたいと思うかい?」

「いえ、現時点では全く」

「見かけによらず面白い男だね」

そう言って顔中にしわを寄せて笑うと、年相応の穏やかさと包容力が隠しきれず、三山は幼い頃に戻ったような感覚がした。

すでに他界した三山の祖母に、久しぶりに会いたくなった。

「不動産会社の者でして、今日はお客様の案内でこちらに伺いました」

「あぁ、そうなのかい。こんなところに住みたいなんて、よっぽどの変わり者だろうねぇ」

そう言うと、あまり似合わぬ意地悪な笑みを浮かべる。

住民の言葉ほど説得力のあるものはないが、その点については三山も概ね同意である。

西早稲田にもたくさんのマンションがあって、ここ以外にも比較的安いマンションはある。

住民には申し訳ないが、あえてここを選ぶ理由は、皆目見当もつかない。

「しかもマンションの裏手にね、墓地もあるんだよ。最悪だろう?」

追い討ちをかけるように、無慈悲な言葉を投げかけてくる御婦人は、何故だかとても楽しそうである。

この人の堂々たる変わり者っぷりが、全てを物語っているようだ。

類が友を呼ぶように、変人もまた変人を呼ぶらしい。

これから始まるのが喜劇なのか、それとも悲劇なのか、不安に駆られながらもどこか心躍るような不安定な彼は、自分自身を支えるように、剥げた手すりにもたれかかりながら、日の落ち始めた空を見上げる。

株式会社Housmart
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マンションジャーナル編集部

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