【有楽町】世代によって大きく違う有楽町のイメージ!有楽町の今昔物語

2016.02.06
現在における有楽町のシンボル的な存在は、「銀座プランタン」や「有楽町イトシア」、そして有楽町駅周辺に点在する映画館といったところでしょうか。でも、お年を召した世代には「日劇」や「東京宝塚劇場」、讀賣会館のテナントである「有楽町そごう店」なのかもしれませんね。そして、「有楽町そごう店」のコマーシャルソングでグランク永井の歌う「有楽町で遭いましょう」が、懐かしく頭に浮かぶのではないでしょうか。でも、20~30代の方にはピンと来ないでしょう。なにしろ、その世代の祖父母の時代の話ですからね。

監修者:針山昌幸

針山昌幸 プロフィール写真

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有楽町の昔話

江戸時代まで遡ると、この地には時代劇の大岡越前でご存知、南町奉行所がありました。「有楽町」という地名が誕生したのは、明治になってからのことなのです。昭和になると、「日劇」や東京における宝塚歌劇団の本拠地として「東京宝塚劇場」がオープン。「日劇」では、日劇ダンシングチームによるショーダンスや、歌謡ショーの公演などが興行されていました。しかし戦時中は、「日劇」と「東京宝塚劇場」が風船爆弾工場として使用されるという悲しい歴史があります。そして敗戦後は占領軍に「東京宝塚劇場」が接収され、駐留軍の慰問施設として「アーニー・パイル劇場」と改称され日本人の利用は禁止されていました。1955年に接収が解除され宝塚の公演が再開されましたが、その後は老朽化のため1997年に閉場して建直され2001年にニューアルオープンしました。日劇はNHKの紅白歌合戦が開催されていたこともあり、この劇場に出演することが芸能人としてのステータスだった時代もあるのです。今で言うと、武道館や東京ドームでコンサートをするのと同じような感じですね。

有楽町に於けるシンボルの新旧交代

日劇の竣工は1933年ですから、流石に老朽化が進み1981年に閉鎖し解体されてしまいました。日劇の跡地には3年後の1984年に、有楽町の新たなシンボルとして「有楽町マリオン」がオープン、同時期に百貨店経営に乗り出したダイエーが手掛けた「銀座プランタン」も開業しました。現在はダイエーの経営不振により「銀座プランタン」株の99%が読売新聞社に売却され、更にその内の30%が三越伊勢丹に移っています。そして、フランスの「オ・プランタン」との商号・商標の使用契約が2016年末で終了するため、2017年には新たな名称でリニューアルオープンすることが発表されています。2000年には「有楽町そごう店」が閉店し、その後に「ビッグカメラ」が開業。2007年に、駅前再開発により「有楽町イトシア」がオープン。こうしたシンボルの新旧交代により、有楽町の景色は様変わりしていったのです。

まとめ

戦前の劇場街として華やかさ、戦中の爆弾工場という悲しい使われ方と戦後まもなくの苦難の時代を経て、逞しく強かに生き抜いてきた「有楽町」の歴史は如何でしたでしょう。今の有楽町から以前の面影は伺い知れませんが、改めて時代を生き抜いてきた逞しい街に敬意を表したいですね。
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マンションジャーナル編集部

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